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甘い生活・6



いつもと同じような、ブランチに近い朝。

寝室も部屋も、他人が入り込んだ気配も痕跡も感じられず、「あれは……」と思い探した

グラスさえ、いつもの棚に片づけられており、チヨコは首を傾げるばかりだった。

思い出そうとすると、不意にあやふやになる記憶。確か、玲都が彼女に氷の入った

水のグラスを渡してくれたはず。それから色々と話して、それから……と、最後が

どうも不鮮明になる。若い男が深夜自分の部屋を訪れるなど、ハイミスの妄想かと、

チヨコは独り、バツの悪い思いをしながら、今日の仕事場へと出かけた。



夕方頃からが出番のシャンソン喫茶には、隆木は姿を見せなかった。

さすがに彼も、毎日欠かさず彼女の歌を聴きに来るということは、現実的には無理なこと

であるから、それは珍しいことではなかった。けれど、昨日の今日ということもあり、

いつもよりそれが気にかかった。それに加え、昨夜の玲都との深夜の出来事が、

果たして現実であったのかという奇妙な感覚が、彼女の一日を落ち着かないものにしていた。


 “……それで良いんだよ”


ふとした瞬間、昨夜の記憶らしきものが蘇り、チヨコは独り、仕事後の一杯を飲みながら

赤面した。もしあれが夢なら、自分は相当欲求不満なのかと、それ以上突っ込んで

考えることが出来ないほど恥ずかしくなった。するとまた、玲都の言葉が浮かんでくる。


 “『恥ずかしい』なんて感じられる気持ちを持ってるのって、素敵なことだと思うけど”


いたたまれなくなって、チヨコは席を立った。

シロクロはっきり付けたくて、昨夜の店に玲都が居るのか、確かめに行こうとも思い、

途中まで足を向けたが、それもできずに立ち止まる。


 “――年食っちゃったから臆病になってるだけじゃないの?”


連鎖反応のように、玲都の言葉の一つひとつが次々に返ってくると、道端で立ち尽くして、

「わーっ!」と叫びたくなる程に、耳に胸に、体中に痛いようなことを言われたのだと、痛感した。

もし、あれがやはり現実で、玲都の言ったことばも皆、全部現実であったとしたなら……


「あのクソガキ、ただじゃ済まさないからねっ」

キュッと拳を握りしめ、チヨコは歩き出した。

何にせよ、さっきよりは元気が出たようで、足取りはカツカツと、しっかりしていた。

カラ元気という様子がないではなかったが、今日も独りの部屋に帰らなければならない

寂しさを忘れて家路につけるのは、チヨコにとっては良いことだったろう。


ピッピッとプッシュ式のキィを解除してドアを開けると、いきなり目の前に、銀色アタマの

玲都が立っていた。

「お帰りなさい、チヨコさん」

目を丸くして、凝然と立ち尽くしているチヨコを、うやうやしく迎える下僕のように、彼は言った。

「あんた……どうやって入ったの」

「昨日、一緒に入ってきたって言ったでしょ。暗証番号も、ちゃんと覚えたよ」

「……油断の隙もありゃしない」

靴を脱ぎながらの、うつむいての不快そうな口調も、その実、何処か浮かれそうな口元を

無理矢理隠した様子が有った。

「――ありがと」

ソファに座ると、玲都がグラスに、キンキンに冷えた白ワインを注いでくれた。

飲んでいた途中で帰ってきたから、丁度飲みたい気分になっていたところで、

チヨコは率直に喜んだ。

「あんたも飲む?」

「いえ、居候の身で、とんでもないです」

おどけて、ボトルを持ったまま「とんでもない」の仕草をする玲都に、チヨコは笑って、

「昨日、あれだけ失礼なこと言っておいて、今更何言ってんのよ。……付き合ってくれると

 嬉しいわ」

信じられないくらいに素直な言葉が、玲都に向かってこぼれ出た。何だか、急に室内が

楽しい明るさに満ちてきたような気がして、ワインの味が格別に感じられたからかもしれない。

「あ、じゃあ居候して良いんだ、チヨコさん」

「……」

そういえば許可したオボエなんか無かったことに気付く。だが、不思議と腹立ちは無かった。

「まあ……ちょっとの間なら。――でも、おかしな真似したら、即、警察に突き出すわよ」

「それはもう、心しております」

改めて、玲都は深々と頭を垂れた。頭を上げると、チヨコと目が合い、ニコッと笑う。

つられてチヨコも、微笑んだ。



「隆木さん、今日は来てた?」

隣に座った玲都の言葉に、チヨコは首を振った。

「来なかった。……ま、いつも二、三日に一度は必ずってくらいだから」

「とか言って、気にしてるんでしょ。俺が昨日やったことで」

「分かってんだったら、少しは済まなそうな態度見せなさいよ、あんたは!」

「はぁ、どうも済みません」

「誠意がこもってないっ。ヤキ入れるよ」

「チヨコさん、さすが元ヤンキー……マジで怖いわ」

「誰がよ」

退屈と孤独と、幾度も繰り返した同じような夜が、思いがけない色に塗り替えられてゆく。

あれほどまつわりついたもどかしさも何もかも、一つひとつの結び目が自然と解けてゆくように。



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